Gender equalityと性の多様性を「一緒に」考えてみる/子育てにおけるGender equalityを促すマタニティきずなメールRP⑤
コンテンツチームの荻原です。
妊娠期の「マタニティきずなメール」と、子どもが生まれてからの「子育てきずなメール」で構成される私たちの「きずなメール事業」では、年に一度、原稿を最新の状態に保つためのリニューアル作業を行っています。
どちらのコンテンツも医師や管理栄養士による監修を受けており、監修の専門家によるファクトチェック、読者から届いた声の検討、また、妊娠出産、子育ては時代によって変化しますので、その変化などに対応しています。
今年は様々な条件が重なり、例年よりも規模を大きくし、新たな視点を追加して「マタニティきずなメール」のリニューアルを行うこととなりました。
この大規模なリニューアルを「マタニティきずなメールリニューアルプロジェクト」として、こちらで進捗状況を報告しています。
ブログのタイトルにある「マタニティきずなメールRP」とは、「マタニティきずなメールリニューアルプロジェクト」を指しています。
今回は、マタニティリニューアルと同時に進めている学童期思春期応援メッセージで扱っている、「性の多様性」というトピックとのかかわりの中で考えたことを書いてみたいと思います。
「Gender equality」と「性の多様性」の問題
まず、マタニティリニューアルの柱となっているのは団体内でGender equalityと呼んでいるものです。
(直訳すると男女平等ですが、この言葉の使い方についてはやや暫定的で、その経緯はこちらです)
妊娠や子育てにおけるGender equalityをどう考えるかはとても難しい問題です。
子どもを出産するのは女性で、妊娠や出産というのは、体に大きな負荷がかかるものです。
そのためには入院や休息が必要で、身体への負荷を気遣いながら過ごさなければならない時期や、仕事を休まなければならない期間が必ず出てきます。
そういった特性が、“妊娠や子育てにおける”Gender equalityの難しさにつながります。女性に負荷が偏りがちであることは前提に、設計していかなくてはならない一面が出てきます。
そうすると、男性が育児や家事をすることに重きがおかれ、いわゆる「イクメン」と言われるようなバイアスに男性も疲弊するという問題も出てきます。そのような流れから、男性へのケアも重視されつつあると、私自身は認識しています。まだ勉強の途上ですが。
一方で、性の多様性の問題というのは、生物学的な性だけではなく「社会的・文化的な性」の問題とも言えます。
生まれたときに与えられた性と、そのあとで編み上げられていく性の、関係の問題とも言えるかもしれません。
おなじ「ジェンダー」問題だけれど、なかなか重ならない両者
この半年ほど両方のプロジェクトを交互に進めていたのですが、「Gender equality」と「性の多様性」の問題は、どうにも同じ「ジェンダーの問題として扱う」という風にはなっていかず、どこまでいっても両者が重なり合ってこない、というイメージを抱いてきました。
なぜだろう、と不思議に思ったので、今回少し考えてみることにしました。
まず、Gender equalityの問題を語る際、登場する性別は基本的にはふたつです。「男性」と「女性」です。
一方、性の多様性の問題では、出てくる性は「無限」と言えるでしょう。
大半の人が男か女かどちらかの性を得て生まれてきますが、そこに性的指向や性自認、性表現が加わり、あらゆるグラデーションの中にすべての人が位置している、という考え方も浸透しつつあるように思います(この考え方の転換には、なるほど!と驚きがありました。詳細は後述します)。
こうして考えてみると、確かに両者は性質の異なる問題のようにも感じます。
そればかりか、男女平等実現のために、「男女差」や「男女比」をあまり強調すると、男や女という枠自体を問い直そうとする「性の多様性」の問題とどこかで相容れない部分が出てきてしまうのではないか、ともよぎりました。
「Gender equality」と「性の多様性」問題の共通項を編み出していく
あれこれ考える中で、両者の共通項であると思えたことが、まずひとつありました。
どちらもジェンダーにおける「先入観」、「思い込み」に気付くことで緩和されていく問題であるのは一緒だ、ということです。
「Gender equalityの問題」では、”男らしさ”、”女らしさ”に付随する役割の先入観があり、「性の多様性」では、”性別はふたつであるはずだ”、”異性を好きになるはずだ”というような思い込みや偏見が複雑に絡み合っています。
この観点においては、両者は同じ問題に向き合っていると言えそうです。
そしてもうひとつ、性の多様性について学んでいく中で、自分自身が得た気づきを、Gender equalityの問題にも置き換えられないかと考えました。
先ほど述べた考えの転換のことですが、性の問題は、マイノリティVSマジョリティの対立的構図から、「すべての人が性のグラデーションの中にいる」という風に認識の仕方を展開させた、ということだと感じました。この方法を、Gender equalityの問題にも置き換えられないか、と思案してみました。
「母親や父親が担う役割」を、「子どもにとって必要なこと」と転換してみる
「すべての人を当事者にしていく」ためには、母親と父親の問題ではなく、子どもがいない人も含めた、すべての大人を当事者として考えられる図が必要です。
その方法として、子ども目線で考えてみるということがあるのではないでしょうか。
「子育て」の目的は、子どもの健やかな成長を目指すことですから、そのために必要なことを考えてみよう、というのを最初の問いかけにおいてみることにしました(ここにはもちろん、親の心身の健康も含まれます。そうでなくては、子どもに十分なものを与えることが難しいからです)。
どんな人にだって、「子ども時代」というものはあります。親になった経験がなくても、自分の子ども時代と照らし合わせて、子どもには何が必要なのか考えることはできるのではないでしょうか。
そうすると、子どもにミルクを与えるのは、母親であり父親であり、時には保育士や祖父母や近所の人であってもいいことになります。ここで、近所の人がミルクをあげているのを見て、母親は何をしているんだ!と憤慨するのではなく、子どもにちゃんと栄養が与えられていることに安堵する、と受け止められる世界のあり方も、ありえるのではないでしょうか。
このように考えたとき、「子育て」はすべての大人がグラデーションの中にいる当事者である、と言ってしまうのはやや飛躍しすぎかもしれませんが、自分自身も子を育てている母親のひとりとして、少しだけほっとできる世界図だと感じます。
「私」だけでなく「父親」だけでなく「親族」だけでなく、「地域」、ひいては「大人」たちも、子どもの未来を考える当事者なのだという認識の仕方は、誰かに「頼る」ことを、少しだけ後押しするように思えます。
この世界図を持って現実に立ち返る
この両者を一緒に考えることで何が生まれるのかわかりませんが、少なくとも、対立するものではなく、同じ「先入観や思い込み」を乗り越えようとする問題提起者として、一緒に取り組める余地はあるのだ、と自分なりに納得することができました。
また、両者は異なる問題のように見えることもたくさんあるけれど、両方で重ねられてきた議論や考え方を相互に移植することで、お互いがお互いの思い込みの呪いを解き合うことにもなりうるではないかと、ちょっと壮大な希望を抱くこともできました。
もちろんこれは頭の中のできごとで、実際にはなかなか思ったようにはいかない現実があり、だからこそ、論じ続けられているのだと思います。
これから、そうした「現実」に目を向ける機会を増やしながら、メインリニューアルに向けて、考え続けていきたいと思います。(了)
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