「船室」と「羊水」
3月からきずなメール・プロジェクトでお仕事を始めました、古屋です。
日々新しいことに驚きながら仕事を覚えている最中です。
私が日々感じたことや驚いたことをこちらで書いていきたいと思います。
ゴールデンウィークが明けました。
この一週間はお休みが続きましたので、今週はお仕事ブログから閑話休題。
休暇中に私が読んだ本の中で、きずなメール・プロジェクトの見ている絵と、素敵な親和性を持つ場面に出会いましたので、本のお話をしてみたいと思います。
読んだのは多和田葉子の「太陽諸島」という本です。
様々な言語を話す6人が、その言葉の差異(と類似)ゆえに結びつきあい、地球中を旅するという、三部作の大長編。
完結編にあたる本著は、ひたすら船に揺られる、船旅の一冊です。
その中で、「船室」と「胎児」について書かれていたところをご紹介します。
(以下抜粋)
船室に入ると、どの国にいても陸にいても海の上にいても、小さな部屋さえあれば安心だという気になる。
わたしたちは胎児だった頃、自分のいる子宮が地球のどのへんにあるかなどもちろん考えてもみなかった。
将来は月面に暮らす妊婦も現れるかもしれないが、胎児にとっては地球も月も同じだろう。
どこであっても、そこがこの世に存在し始めた時間、一番守られていた場所なのだ。
胎児は羊水に浮いている。狭い船室ほどその時と似た安心感を与えてくれる空間があるだろうか。
(出所:多和田葉子「太陽諸島」)
(抜粋おわり)
なるほど、船室という場所は確かに、それがどこの海を渡っていようとも、等しく家であるような気がします。
それは胎児が母という船に乗っているのと同じだ、というわけです。
母がどこにいようと、羊水に浮かぶ胎児には関係なく、そこには完全なる守護しかない。
私がきずなメール・プロジェクトの求人情報を見つけたとき、そこには「新たなる乗組員を募集します」と書いてありました。
はじめから海に浮かぶ、一艘の乗り物として出会ったのです。
そんなイメージをあらかじめ印象付けられていたせいか、団体内で用いられるいろんなことばはまるで船舶用語みたいに聞こえます。
例えば「網の目を詰める」という言葉は、セーフティネットの中に少しでも多くの人々を留め置くというような意味合いで使っていますが、私はいつも漁船の投網を思い描いてしまいます。
また「アンカリング」という言葉。結びつきの度合いを示す指標のようなことばとして使われています。しっかり結びついている=アンカリングが出来ている、というように。そして私の脳内では、海底に到達した船の錨(アンカー)が砂を巻き上げる場面が展開されます。
私たちは乗組員で、船室が胎児のゆりかごだとするならば、船というのは意義深い例えです。
海がどんなに荒れようと、胎児のゆりかごを守るべく、舵を取り続けなければ…
物語の世界にどっぷり浸され現実に足がつかない状態で、まるで天啓に打たれたかのようにこの符合に思い当たった私は、壮大な脳内大航海を思い描いてしまいました。
一方で、何を大袈裟な、とも思います。
仕事を始めたばかりの私が、どれだけ大きなものを背負っているつもりなんだ、と。
それでも私は働き始めてから、テキストによる間接支援というかたちの可能性を、大きく感じます。
テキストが社会の一端をふるわせる、なんて、それこそ船旅に負けないくらいの壮大なロマンのように思えるのです。
(了)